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めだか少年物語 :  めだかに関わった懐かしい子供の頃を綴りました。
昔語りをご覧ください。
この物語は、以前、ブログに投稿していた記事を、まとめたものです。

目 次(クリックしますと本文へ飛びます。)
1.何故そんな事に
2.池での遊び
3.ケイ太の池
4.メダカ掬いの日々
5.ジャンボとの出会い
6.池を調べる
7.何になりたい?
8.ありがとう。サヨナラ。
9.やっぱりメダカ
10.未来を描く
11.池が無くなる
12.めだか救出大作戦

1.何故そんな事に
 数年前のある日、娘が祭りで金魚を2匹、掬って来た(いや、貰ってきたのかもしれないが)ことが、私のめだか熱を起こすことになったのかもしれない。
 金魚を飼うために、近くのホームセンターで小さな水槽を買った。「そういえば、子供の頃、小さな水槽でメダカを飼っていたっけ。」ヨーし、メダカもついでに。とばかり、以前から時々見に寄っていた、デパートの屋上で、白めだかと緋めだかを数匹買って帰り、金魚とお隣さんに、我が家の住人になった。
 そのデパートの屋上にある観賞魚店は、あまり種類は置いていないのに、メダカだけは結構並べてあり、ダルマだの、アルビノだの、ブルーメダカだの、「ヘエー、結構高いものなんだなあ。」なんて思っていた。(後で自分が、もっと高いメダカを飼うことになるとは知らずに。)
 そして、もうひとつ、黒メダカという安いメダカ(黒メダカさん失礼)が置かれてあり、黒メダカ?普通のメダカではないの?

・・・大人になっても童心が抜けず、大人に成り切れない自分が、夢の世界へ吸い込まれていく、何故、こんな事に・・・

 ここから、昔語りが始まるのである。

 昔々、というほどの昔ではないが、40年程前のことである。大阪市の片隅の小さな長屋が並ぶ中に、ケイ太という少年が住んでいた。
貧しい長屋の住人だから、「勉強しなさい!」などと言われることも無く、子供たちは大きい子も小さい子も一緒になり、雨でもなければ外で一日遊ぶのが日課であった。
男の子は、草野球や探偵(鬼ごっこ)、女の子は、ゴム跳び・縄跳びやままごとなど、一寸した空間があれば、何なりと遊びを作り出していたようだ。ただ、ケイ太は病弱であったから、草野球などにはあまり参加せず、その分、自然相手に遊ぶことが多い変わり者であった。

 その頃の大阪市は、まだ、自然と呼べる物がかなり残っており、畑のおっちゃんに、「コラー入るな!」と怒鳴られながらも、畦に踏み込んで花を摘んだり、小さな川もあったから、「危ないから行かんときや。」と言われながらも、行って落っこちたりと、悪さをしていたものである。

 小さな川には、蛙やザリガニ、フナやモロコ位はいたようだ。残念ながら、メダカは捕まえたことが無かった。

 そんな大阪市も、開発ラッシュの始まりと共に、田畑は埋め立てられて、一時期、埋め立てられた土地は草野球場となるが、すぐに、建築が始まるなどして、建物に囲まれていった。
 子供にとっては、自然なんてどうでもいいが、遊び場が無くなっていくことに、寂しさを感じたのであろう、ケイ太も、これ以上変わらないでほしいと願っていたのであった。

 ある日、ケイ太に一つの出来事が起こった。大阪南部に引っ越すことになったのである。ケイ太は、「友達と別れたくない」と反対であったが、子供の意見など通る訳もなく、引っ越したのである。 今から、考えてみれば、引っ越した先から大阪市まで、車で行けば30分程の距離である。でも、ケイ太には、遥か遠い所のように思えたのであろうか、引っ越して以来、前の長屋へは一度も行くことがなかった。

 大阪南部には、大阪市よりは、自然が残っていた。特に、灌漑用のため池や天皇陵の堀といった池と呼ぶべき水の貯まった場所が多かったから、自然相手の遊びとなると、池へ釣りに行ったりすることが当たり前のことであったようで、変わり者のケイ太の遊びは、益々、自然相手の遊びとなって行った。

 ケイ太にとっては、メダカは池の魚である。それも、小さな池の魚である。
ケイ太にはケイ太流のメダカとの付き合い方があった。(それについては、また、別のお話の時に書きたいと思う。) ひと時、ケイ太は、夢中でメダカを追ったことがあった。それが、何故なのかはケイ太にも解らない。ただ言える事は、それがあったからこそ、自然の素晴らしさや大切さが解るのではないかと思える事である。

2.池での遊び
 大阪市内に生まれ、大阪南部へ移り過ごしたケイ太の子供時代は、大阪南部のため池や天皇陵などの貯水が多い中で、色々な池での遊びを覚えていった。

 同年代の方には、懐かしい経験としてお持ちの方もおられるだろう。めだか掬いもその一つであるが・・・。 あんなこと、こんなことと、色々、遊んだことが、蘇って来るのである。

 何と言っても、魚釣りが主な遊びであった。日曜日などは、大人も子供もごっちゃになって釣り糸を垂れていたものである。溜池で釣れるようなものである、せいぜい フナかコイ、珍しいものでも、モロコかクサガメ(魚ではないが)程度である。それでも、凝っている大人の方は、へらでも釣るかのごとくの立派な出で立ちと竿を下げて釣りをされていた。
 ケイ太には、立派な竿を買える訳がなく、駄菓子屋で買った安い釣竿と仕掛けで、釣りの真似事をしていた。魚の習性は結構知っていたので、コンクリートで固められた角(かど)や排水が流れ込む堰など、よく釣れる所を見つける能力は中々のものだった。

 ネコじゃらしという雑草がある。穂の部分を取って手の親指と他の4本指の間に包んで開いたり閉じたりすると毛虫のように指の間から這い出してくるやつである。この、ネコじゃらしの穂の先っぽ少しと茎を残して取り去り、それを蛙の鼻先でチョロチョロさせると蛙が飛びついてくる。蛙釣りといって、トノサマ蛙位の大きさの蛙だと、結構、楽しめる。ところが、ケイ太は、それを、ウシ蛙でやってしまった。どうなったかは、言わないで置こう。とにかく、ウシ蛙は大量に居て、夏の夜はうるさくてたまらなかった。

 もう一つ、子供の間で流行っていた釣りに、ザリガニ釣りというのもあった。ザリガニは、アメリカザリガニというはさみの大きなザリガニで、結構、何処にでもいて、釣りの対象になるのである。アメリカザリガニは、今でいうブラックバスのようなもので、帰化動物であり、問題になったこともあった。ウシ蛙同様、食用になるが、ケイ太は食べたことがない。
 ザリガニを釣るには、スルメか蛙の足を糸の先に括り付け、錘を付けて池へ投げ込むだけである。餌を銜えたザリガニは、そう簡単には離さないから、ぐいぐい引っ張っても水面に上がって来る。餌の最初の一つがあれば、あとは、釣れたザリガニが餌になるので必要なくなる。爪が真っ赤でデカイのが釣れると自慢していたものである。子供にとっては、カブトムシのような存在だった。

 ケイ太は、色々な遊びがある中で、それにも増して、メダカ掬いに夢中になる。あるメダカとの出会いがあったからである。

3.ケイ太の池
 池での遊びを色々と覚えたケイ太であったが、中でも、メダカには強く興味を持って行くことになる。

 ケイ太の家は、駅の南側、歩いて5分位の所にあった。駅を境にして、南側は、わりと開けていて、商店街などがあったりするが、北側は、ほとんどが田畑になっており、間に家がポツンポツンとある。そして、ところどころ、田畑の境界に少し盛り上がった所があり、その中には、必ず小さな池があった。

 ケイ太は、一時期、休みともなれば、家からちゃりんこで走って、踏み切りを渡り、池が点在するところへ出掛けて行った。

 その中には、ケイ太の秘密の場所があったからだ。
 田畑に水を引き込むために設けているのであろうその池は、どの池も、歩いて2〜3分で一周できる程度の小さなもので、周囲は土手の様になっており、葦やススキが茂り放題の状態であった。ただ、細い道だけは付けてあり、草を掻き分けて、やっと池を見る事ができるようなものだった。 土手といっても低いものであり、少し掘り下げて水を貯めただけのものであろうから、浅い池で、それが、メダカには格好の生息場所になっていたのだろう。

 もちろん、少し離れたところには、結構、大きな池があったり、皆が御陵さんと呼んでいる、天皇陵の堀も、池としての風格?を表していたが、この辺りは、それとは違った雰囲気と言うか、匂いを感じる地帯であった。

 いくつかある池の中で、1つだけ、水の色がいつも薄い水色というか白緑と言えばいいのか、何ともたとえ難い色をしている所を、ケイ太は見つけた。他の池はどれも、茶色っぽい色や濃い緑色をしていたので、別世界の様な感覚に陥るような場所であった。
 非常に小さな池であったので、おそらく、地図にも出ていなかっただろうし、周囲は雑草の茂みになっているため、ほとりへ行くだけでも結構大変な場所であった。入り口が解りにくかったが、そこからであれば行く事ができるという道をケイ太は見つけたのである。

 その池は、自分で「ケイ太の池」と名付け、しばらくの間、ケイ太だけの秘密の場所となった。
 池は、人から隔離されているためか、様々な生き物が優雅に暮らしているかの様であった。 水面には、メダカの他、ライギョ(タイワンドジョウ?)が日差しにまどろむかの様に浮いており、風の当たらない所には、アメンボが跳ね回っていた。 水底には、小さく透き通ったエビ(ヌマエビと思う。)やドンコと呼ばれていたハゼの仲間も岸に近づいて覗き込めば見る事ができた。水の透明度が高かったのであろう。 トンボも多い場所で、ケイ太は胴が緑や黄色の糸トンボ(種類なんて知らなかったが)を気に入っていた。

 その池は、ケイ太のメダカ掬いのフィールドとなるのであるが、ケイ太にとっては、その池で捕まえたメダカこそ、本当のメダカであると、ブランドの様な感覚を持っていた。 おそらく、その池の色は、何かの成分が溶け込んでいたために生じたのだろうと思うが、小さな生き物たちが自然に生きて行ける場所があることに、ケイ太は子供心にも、喜びを覚えていた。

 そして、ケイ太とメダカとの戦いが始まるのである。

4.メダカ掬いの日々
 そして、ケイ太とメダカの戦いが始まった。

 ケイ太の格好は、いつも、こうであった。ランニングシャツに半ズボン、麦藁帽子と、夏であれば何処にでもいそうな子供のファッションで、右手にタモ網、左手に小さなバケツ。考えてみれば、何とみっともない格好であったのであろう。
 学校が休みの日の昼下がりは、いつものように、この格好で’ケイ太の池’へメダカ掬いに出掛けていた。掬ってきたメダカを飼うにしても、小さな水槽が一つしか無いのであるから、20匹もあれば、水槽は一杯になるはずである。ケイ太は、いつも、1匹か2匹しか掬って来ないで、また、メダカ掬いに行くのであった。

 今から思えば、笑い話の様であるが、ケイ太は、こだわりを持って、真面目にメダカと向き合っていたのである。 池に着いたら、まず、雑草の茂みの間から池を覗き込んでみる。水面に留まっていたメダカたちは、驚いたように一斉に沖へ進みながら、水中へ消えていく。

 よし、いつもと同じだ。

 小さな池のメダカは、決まって同じような行動を取るのである。それは、普段は岸に近い水面をどちらへ行くとも無くウロウロしているものの、大体はある範囲に固まって集団でいる。何かに驚くと、一斉に沖へ向かって泳ぎながら水中へ潜り、しばらくすると、岸近くの水面に何事も無かったかのように浮いて来て、また、ウロウロする。おそらく、2〜3メートル先の水中でUターンして来て、岸近くまで水中を戻り、「大丈夫かな?」とばかり、水面に浮いて来るのであろう。

 ケイ太の道具は、1メートル程の竹棒に、針金を丸く曲げて、木綿糸で荒く編まれた網を通して取り付けただけの粗末なものである。網が届くのは、せいぜい岸から1メートル位までである。メダカに人の気配に気付かれてからでは遅い。岸から少し離れた所から水面を見て、泳いでいるのが見えれば、駆け寄って、網をジャポンと投げ入れる。逃げるが早いか、掬うが早いかの真剣勝負である。(メダカに取っては命懸けなのだ。)

 メダカを狙っているのに、いつも、よく網に入るのはおたまじゃくしであった。しかも、網が壊れるかと思うようなデカイ牛蛙のである。おたまじゃくしは、見えない水中にいるが、池の外の事には鈍感なのであろう。

 逃げたメダカも、10分もすれば戻って来るから、また、同じ事を繰り返す。しかし、同じ所で続けていては、相手も危険を感じて段々と浮いて来なくなるから、今度は場所を変える。 こんな遣り方であるから、5〜6匹程度しか掬えない。それでも、ケイ太は満足していた。多くを掬う事よりも、自分なりの、メダカとの付き合い方を選んでいたのである。 さらに、その中から、大きい・丸い・美しい・特に気に入ったのだけを選らんで、後は池へ放して帰るのが常であった。自分で選んだ特別なメダカなのである。

 ケイ太の母親が、いつも口癖のように言っていた「小さな生き物かって、皆、命あるんやから、大事にせなあかんのやで。」「よおけ採って来ても飼われへんよ。」という言葉が、身についていたからであろうか、気に入った奴しか採らないというのが、こだわりのようになっていたのである。
 ケイ太は、母親の口癖のおかげで、命を大切にする事だけは、人一倍の人間になったのだろうと思う。

 そして、ある日の事である。いつものようにメダカ掬いをしていたケイ太の網に、今までに見たことの無いメダカが入っていた。このメダカのために、ケイ太に取っては、忘れる事のできないドラマが始まったのである。

5.ジャンボとの出会い
 あの日、メダカ掬いで、ケイ太の網に入ったメダカは、ケイ太にとっては、衝撃的な物であった。

 色は、透き通る様な黄色をしており、背中の部分がさらに明るい色の模様になっていた。今の改良品種で例えると「黄金」と呼ばれているものに近い感じである。(当然、当時は無かったものであるが。) この池の他のメダカに比べると、明らかに色が薄く明るく、太陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。 お腹が膨らんでいる訳ではないのに、全体に丸い感じがして、ふっくらとしていたので、ケイ太は、そのメダカを、ジャンボと名付けた。

 ジャンボとの出会いは、ケイ太をこの池へ惹きつけるのに、十分な存在であった。
 その日、ケイ太は、ジャンボを連れて、飛んで帰ったことは言うまでも無い。
 今まで気に入ったメダカを持ち帰り入れていた水槽には、10匹程のメダカが泳いでいたが、そこへ、連れて帰ったジャンボを放し、改めて、横から眺めて見る。 他のに比べて、大きい訳ではないのに、色合いと丸いその姿は、堂々として他のメダカを連れて泳いでいるように思えた。

 「ジャンボはメスだから、もう1匹、オスを探さなければ。」 次の日から、暇があれば水槽を覗き込み、休みともなれば、2匹目のジャンボを探して’ケイ太の池’へ出掛ける日々が続いた。
 今日も、’ケイ太の池’へ出掛ける。小さな網で掬う遣り方である、時間の限りがんばっても幾らも掬える訳ではない。今日こそは、今日こそは・・・、何日続いたのであろうか。その日から、何かにとり付かれたかのように、メダカ探しを続け、空しく家へ帰る日々を過ごす事になった。 それでも、季節は容赦なく変わっていく、春が過ぎ、夏が過ぎ、その年は、あっという間に秋口を迎えてしまった。メダカが掬えるのも後少しだし、半ば諦めかけていた時のことである。いつも見ている筈の水槽にいる今年生まれた小さいメダカの中に、明らかに色が違うものがいるのを見つけた。

 「ジャンボの子だ!」

 卵は産んだまま、親と同居で育てていたので、ほんの少しの子供しかいなかった。その中にいた、たった1匹の薄い色のメダカの子であった。ジャンボの様に丸くてふっくらとしたものではなかったが、色だけはジャンボの色になるだろうと、ケイ太は確信したのである。

 季節はさらに進んで、ジャンボは、たった1匹の同じ色のか弱い子供を連れて、冬を越すことになる。暖房なんて入れて貰えない、外に出したままの水槽である。元気なまま、冬を越してくれることを願って、水槽を眺めるケイ太であった。

6.池を調べる
 その年は、非常に寒い冬であった。例年、余り雪の降らない大阪でも、20Cmの積雪が何度かあったほどである。水槽の底で物陰に隠れているジャンボの姿を、時々覗き込みながら、春を待ちわびた。何と永かった事か。

 やっと、春めいた頃、ケイ太は、水槽の中を恐る恐る探ってみた。ジャンボは飛び出した。「フウッと一安心。」しかし、残っていたのは、親メダカだけで、子メダカは一匹も見つからなかった。 「ジャンボよ、ずっと、一緒だよ。」と、ケイ太は心の中で泣きながら、つぶやいた。

 新学期になり、社会科の授業で、校外授業というのが始まった。「自分の住む地域を調べる。」という、実地調査である。ケイ太は、これを楽しみにしていた。
 これは、4〜5人でチームを作り、自分たちの住んでいる地域の地理、産業、歴史などを調べて、発表するという実技の授業で、当時としては、珍しい授業であったようだ。
 ケイ太は、自分の住んでいる町は、池の多い所だから、池について調べようとテーマを提案した。社会科としては、変わったテーマであることも手伝ってか、1つのテーマとして採用された。自分が提案したテーマが採用されると、人というのは張り切るものであり、ケイ太も例外では無かった。

 3km範囲の地域の現在の地図(池と道路以外、省略。)を付けて見たが、この地図でも解るように、狭い範囲に、多数の池が存在しているのである。これらの池は、何のためにあるのか、どんな地形なのかを、実際に見て、調べようと言うのである。 実地見学は週1回、池探索チームは2班に分かれて、地図の最短ルートを辿り、池の観察に回った。 池について、大きさ・天然か人工か・予想される用途などを記録して行き、まとめて発表することにした。

 調査の結果であるが、何故か、天然か人工かについては、天然が57・人工が55と言う数字だけは覚えている。また、用途は、ほとんどが農業用水で、その他、釣堀・工業用水・堀(御陵)などであった。

 発表に対する教師のコメントである。
「天然か人工かは、どうして調べたの?」
「岸が土のものが天然、コンクリートの部分があるものが人工としました。」
「そうですか。でも、この辺の池は、全て人工でしょうね。」
 と、言われたのが印象に残った。

 ケイ太は、やはり、メダカが生息しているかも調べていた。ケイ太は、池と池の間隔が離れている地域の担当になったため、見て回った池は、40余りと少なめだったが、約8割の池でメダカを確認している。 余程大きな池以外は、大抵、メダカは居たということである。

 たまたま、社会科の授業がきっかけで調べたことであったが、自分の住んでいる地域を調べること、興味を持ったことに実地調査すること、など、この授業を通して、ケイ太にとって、社会科というより、社会の勉強になったのではないかと、現在でも思えるのである。

7.何になりたい?
 春が過ぎ、初夏を迎えようとしている頃であった。その年は、冬が寒かった分、跳ね返すように、春は足早に通り過ぎ、例年より暑い夏を迎えようとしていた。 ジャンボは、まだ、卵を産んでくれない。ケイ太は、その年も、第2のジャンボを求めて、池通いを続けていた。

 一方、学校では、ホームルームともなると、趣味がどうだの、小遣いの使い道だのと、勉強と関係の無いことが多く、勉強嫌いなケイ太にとっては、有難い話であって、ホームルームにやけに力が入っていた様な気がする。 そんな中で、良くある話ではあるが、「将来、何になりたい。」という話題が出てきた。

 皆、パイロットや、スポーツ選手・医者・鉄道マン・親の店を継ぐ・社長になる・・・など、現実的なのか夢なのか、当たり前の様な答えが、ほとんどであった。 ケイ太は、おとなしい方の子であった事から、頭が良いように思われていた。(本当は違うのだけれど)だから、科学者になりたい、などと、答えて、「何の科学者に?」と聞かれると、答えられなかったり、訳の解らない夢を答えていた。

 でも、本当は、壮大な夢を持っていた。

 それは、インセクトリウム・アクアリウム(昆虫・水族館)を作る、と言う夢であった。日本に昆虫館と言えるようなものがほとんどなく、多摩動物公園の温室で、蝶が放し飼いされている、ぐらいしか、知られていなかった頃の事である。

 構想はこうである。

 1日で、熱帯から冷寒帯までを、自然の生き物を通して旅ができる環境を再現しようとするもので、大型の冷室と温室を通路でつないだ物だ。

 熱帯温室は植物園でおなじみだから、見本樹だけでなく自然の植生を作り、温室内を周遊する川を設けて上からも横からも見れるようにする。そこに、熱帯性の淡水魚や昆虫を放して自然のままに環境を維持する。熱帯圏はサイクルが早いし、種類も多いから、何かがいつも見られるようにするのは簡単である。

 次は、温帯である。ここは、四季室として、3ヶ月ずつ気候をずらした冷温室を4つ設け、四季を渡り歩けるようにする。 本当は、12個の部屋を作り、月ごとのテーマを決めて実現できればいいのであるが、そこまでは困難であろう。
 但し、4つの部屋を設けても、調整室を作っておかないと、同じ季節の維持を3ヶ月続けるのは難しいと思う。 1日で四季を渡り歩けたら素晴らしいだろうななどと、考えていた。

 そして、寒冷室と高山室である。 考えて見れば、ここにも四季があるのであるが、やはり、子供の考えであったのだろう、夏しか頭になかった。 しかし、夏だけを常時再現できていれば良い訳で、観察室は1つで良いかもしれないが、寒冷帯や高山の夏だけを維持しようとすれば、膨大な設備が要りそうな気がする。

 こんな夢を持っていたのだから、やはり、ケイ太は変わり者だったのだろう。叶う筈のない夢を見続けていたことは、確かだった様である。 しかし、こんな事でも実現させないと、本当に、ありのままに見ることが出来なくなってしまうような時代が来るのではないかと言う事を、当時の誰が予想しただろう。

8.ありがとう。サヨナラ。
 いよいよ、夏本番、もうすぐ夏休み。という頃であった。

 けれど、1つだけ、気になっていることがあった。最近、ジャンボは水面でじっと浮かんでいる事が多いのである。

 「大丈夫かなあ。」
 「池へ、返してやった方がいいのかなあ。」
 でも、まだジャンボと同じ色をしためだかは見つかっていないし、これはケイ太の責任であるが、ジャンボの子をうまく育てることが出来なかった悔しさもある。何としてもと言う思いが残っていた。

 「諦め切れない。」
 「がんばってくれよ。」
 そう言って、ケイ太は、ジャンボを残して、また、池へ出掛けることにした。
 いつもの道を自転車で走り、踏み切りを超えた所で自転車を置いて、草のにおいに包まれた細い道を歩いて行く。

 ただ、その日のケイ太の池は、燃えるような真っ赤な太陽に包まれていた。
 いつもの道なのに、行けども行けども、池は遠く離れて行くような気がする。
 「早く、おいでよ。」 ジャンボが呼んでいる。
 「待ってくれ。すぐに行くから。」 目の前を泳いでいたジャンボの姿が消えた。
 「おーい。何処へ行ったんだ。」
 「こっちだよ。」 また、ジャンボが遠くで呼ぶ。
 「待ってくれ。待ってくれ。待ってくれ・・・。」
 「お前なんか、行かせるものか。」 焼けた道が顔になり、叫んでは消える。
 「もう、お前は、この池へ近づけない。」 池が真っ赤な顔になり、叫んでは消える。
道の脇の草が手になり、ケイ太の足を引っ張る。
 「出て行け! 帰れ・・・。」
 「何故なんだ。」
 「出て行け! 帰れ・・・。」
 「早く、おいでよ。」 ジャンボがまた呼んでいる。
 「待ってくれ。」

 ケイ太は、いつしか、熱射病になっていたようだ。目が覚めて、布団に横になっている自分に気付いたのは、翌日の朝であった。

 熱は下がったものの、それからも、怖い夢を見る日が続いた。何とかしたかったが、夢だけはどうしようもない。楽しいことを考えながら寝る位しか、方法は無かった。 それでも、病から回復したケイ太は、「無茶したらあかんで。」という親の言い付けも聞かず、出掛けていた。

 そんな事があってから、数日たった朝、ジャンボは白くなって水槽の隅に浮いていた。
 ケイ太は、その時になって、初めて、ジャンボの事を本当に想っていなかった自分に気付いた。
 「気が付いて遣れなくて、ごめんよ。」
 「お前も、狭い水槽の中で、熱射病に苦しんでいたんだ。だから、夢の中で僕を呼んでいたんだ。」
 「僕は、お前の体のことを一番に考えて遣れなかった。お前の代わりを探すことにばかりに熱心になっていたんだ。」
 「もしかしたら、僕が熱射病で死んでいたかもしれない。お前が助けてくれたんだね。」

 ケイ太は、今でも、ジャンボが自分の身代わりになって死んだのだと信じている。
 ケイ太は、変わり果てたジャンボを、狭い庭の片隅に埋めた。
そして、最愛なる言葉として、つぶやいた。

 「ありがとう。サヨナラ。」

 その日、水槽に残っていた めだかたちを、池へ放した。

9.やっぱりメダカ
 ジャンボを亡くしてしまったケイ太だった。

 ケイ太は、ジャンボを死なせてしまった事も、ジャンボの子孫を残してやれなかった事も、あの美しいメダカを残して置くことが出来なかった事も、自分のせいであると、その事がつらくていた。

 しかし、この事があって、生き物を飼うことが止められるほど、意思の強い人間では無かった。 一度は止めようと思ったものの、一週間も経たないうちに、また、生き物好きの性格が出てきてしまったのだ。

 祭りの夜店に出掛けたときのことである。金魚すくいやヨーヨー釣りなど、お馴染みの店に並んで、ヤドカリ売りが出ていた。しばし眺めたあと、ヤドカリなら良いかなあとばかり、お小遣いは2匹のヤドカリに変わった。 売っているヤドカリは、オカヤドカリと言うらしく、日本の海に居るヤドカリとは違って、海水が無くても育てられる。えさも色々と何でも食べるし、大きくて括弧良い。
 でも、飼って見ると、今一動きが無くて面白くない。そのうち、逃走してしまったり、知らないうちに飼わなくなっていた。

 夏が過ぎて、秋が近付いて来ると、当時の草むらには、キリギリスやスズムシ、マツムシなどの鳴く虫が見られた。 ケイ太は、虫も好きであったから、一通りの鳴く虫を採って来て育てもした。一時は、スズムシに凝って、学校のクラブの研究発表にもしたことがあった位である。
 でも、余り変化が無い、奇形が多数出て困ったりと、何年も続けるほどの魅力を感じさせるものではなかった。

 こうして、他にも、色々と飼いたいものが現れては消えると言った事を繰り返していた。

 そんな日々がしばらく続いた後のある日、近くのショッピングセンターに出来た観賞魚店へ行って見ることにした。当時は、熱帯魚ブームの頃だったようで、一寸大きなショッピングセンターには、大抵、観賞魚の店が出ていた。

 ケイ太は、一番に、店の片隅にメダカが売っているのを見つけた。たしか、10匹180円位であった。結構、高いと感じた。

 店には、色々と美しい熱帯魚が並んでおり、見に行くだけでも楽しむ事ができた。あまり、好かれる客では無かっただろうが、店内で粘っていると、メダカを買いに来た人がいた。 やはり、メダカを飼っている人もいるんだ!と、その時は思った。しかし、少し様子が違っていた。
 何十匹も買っているのである。
 そんなに一度に買わなくても良いのにと思ったが、「良く食べるからね。」などと、店員と話しているのを聞いてしまった。

 ケイ太は、この時、初めて、メダカが売られている理由を知った。そして、それは、当然の事なのであった。大きな熱帯魚を飼っている人に取っては、メダカは、イワシやサンマと同じなのだ。
 ケイ太は、何か、胸に支えていたものが取れた気がした。そして、さらに、メダカが愛おしく思えた。

 僕は、やっぱりメダカを選ぼう。

 結局、その日に持っていたお小遣いは、負けてもらって10匹のメダカとなって、ケイ太の家へと、帰っていった。

 もちろん、ペットとして、飼う為である。

10.未来を描く
 複雑な思いを持って、また、メダカを飼い始めたケイ太であった。

 「虫やとか、メダカやとか、そんなもんばかりに夢中になっとらんと、たまには、勉強せーや。」と、言われながらも、勉強嫌いのケイ太としては、何処かに逃げ道が無いものかと、いつも、思っていた。
 人間、勉強が駄目なら、運動神経が良いとか、力が強いとか、歌がうまいとか、何か一つぐらいはとりえがあるものだろうが、頭も体も今一の人間であった。 そんなケイ太にも、唯一つ、絵を描くことだけは、人並み以上であると思っていた。別に、絵を描くことが好きなわけでは無かったが、何度か賞なるものを貰った事もあったりしていたからだ。

 しかし、どんな絵を描いたか、確実に記憶しているのは、未来を描くと称した、何十年後かの世界を絵にした事位である。やはり、自然への興味が強かったからこの絵の事だけは覚えているのかもしれない。

 未来を描いても、ケイ太らしさが出ていた事は確かであった。
 ほとんど、周りの友人は、未来を描けと言われれば、コンピュータや無線で何でも出来たり、ロボットが仕事をしていたり、宇宙旅行をしているといった、人間の営みによって実現しそうな(いや、実現に向けて進んでいる)絵であったが、ケイ太は、こんなところにまで自然に拘っていた。

 地球環境がどうのこうのと言われている今日であれば、同じ様な事を思う子もいるのであろうが、世の中が経済発展にしか目を向けていなかった時代に、地上は、自然の森や湖に覆われた状態で、人は空中住居とでも言うべき所に住み、車も列車も全て地下を走っている様な絵を描いていたのだ。

 変わった絵であったが、実際の絵は、立体感のある自然の風景を描いていた事もあって、この題名にそぐわないと思われるような絵がほめられた。

 ケイ太は、少しずつ破壊されていく危機を感じていたのかもしれない。現在の地球環境問題など知る由も無かったが、けい太は、自然と共に生きるべきであるとずっと思っていた子であった。

 そして、その後、現実を肌で感じる出来事が起こったのである。

11.池が無くなる
 その当時の日本は、成長の時代であった。給料が2割アップ・3割アップしていたのにつれ、物価も上昇を続けている時代であった。それでも、凡人には、大阪市内に土地を求めることなど、とても無理な話だから、外へ外へと居住地を拡げていた。
 いわゆる、ドーナツ化現象である。

 ケイ太がいた大阪南部も、ピタリとドーナツの中に入る位置にあったものだから、相当な速度で開発は進んでいた。
 経済などには、興味も無かったケイ太ではあったが、押し迫ろうとしている環境の変化には、嫌でも敏感にならざるを得ない状況であった。

 駅の傍にあった古い煉瓦造りの変電設備が、アッと居う間に姿を消し、真新しい三階建ての白いマンションに変わった。変電設備の横にあった池(ここにも、めだかがいた。)も無くなり、自転車置き場に変わった。
 駅周辺から始まった開発は、除々に拡がっていたが、ケイ太の池までは相当な距離があったし、御陵の近くということも有り、開発されにくいだろうから、まだ大丈夫だと思っていた。

 ところが、草ぼうぼうだった溜め池群にも開発はおよび、畑もその間の細い道も無くなり、代わりに、舗装はされていないものの、車が通れる程度の道が、いつの間にか出来ていた。おかげで、ケイ太の池へは行きやすくなったが、もう、時間の問題かもしれないなと思えるような状態になってしまった。

 そして、数週間後、ついに、その日は訪れた。

 周囲の畑は、埋め立てられ、池の際まで盛り土されていたのである。ブルドーザーの音が響いている。「ヤメロ!」と言った所で、邪魔な子供だと追い出されるだけである。・・・もう、どうすることも出来ないのか。

 ケイ太は、馬鹿にされるのではないかと気にしながらも、学友に相談した。

 「何とか、あの池を守りたいんだ。池に居る生き物を守りたいんだ。」
 すると、3人の友人が、話を聞いてくれた。
 「さあ、どうしようか・・・。」

12.めだか救出大作戦
 「どうすればいいんやろ。」
 「もう、余り日が無いんと違うか。」
 「工事を止めるなんて、とても無理やし。」
 何とか出来ないものかと、考えた。考え・考え、一人が口火を切った。
 「移すしかない。」
 「移すって、何処へ移すねん。」
 「御陵はどうや。」
 「あんなとこ・・・、だいたい、めだかなんておらへんや。」
 「ウーーーン。」
 「そうや、御陵の横に、池があるやんか。あそこなら、めだかもおったで。」
 と言う事で、早速、4人は飛び出していった。

 その池は、ケイ太の池より、かなり大きく、御陵の堀の一部がせき止められた物の様で、おそらく、御陵と同じ宮内庁の管理下にあったのだろう、良く手入れされていて、石積みで縁取られ、青くはなかったが澄んだ水のようで、浅い所は底が見えていた。 鯉だろうか、赤い魚が泳いでいる。岸近くは、めだかも泳いでいるのが見られた。

 低い柵がされていたが、特に入れない様に規制しているものではないと、ケイ太たちに思わせる程度の物であった・・・・と、勝手に判断して、
 「よし、行こう!」
 ケイ太は、また、網とバケツを持って、ケイ太の池へ飛んで行った。

 池は、半分、埋め立てられていて、水も減っているので、魚は取り易かった。
 ある君が、プラスチック製の仕掛け(びんどうと言ったと思う)を持ってきた。中にエサを入れて一時間も浸けておくと、めだかを初め、小魚やエビなどが簡単に捕れる。

 4人が持ってきたバケツは、すぐに一杯になった。

 今度は、魚を一杯入れたバケツを自転車に括りつけ、そろりそろりと漕いでいく。 バケツがバシャバシャと音を立てる。 土道は押して歩いた。
 御陵までは少しの距離であるが、ずっとゆるい上り坂になっている。いつもであれば、5分程で行ける場所に、何十分も掛かって、フラフラになりながらも、何とかたどり着いた。

 バケツの魚たちを池に放した。
 ホッと、一息。
 4人は、しばし、黙って池を見ていた。
 しばらくして、「もう一回や!」

 その日、4人は、三往復し、翌日も二往復した。
 おかげで、ケイ太の池の魚が余り取れなくなり、
 「これでいいんや無いか。」
 「ありがとう。きっと、大丈夫や。」・・・ここで、生き続けてくれる、そんな願いが安堵感と共に、4人の心に湧いてきた。

 救出しためだかが、そこで生き続けたかどうかなんて、解らない。
 しかし、少なくとも、10数年後にケイ太が大阪を離れる頃まで、この池だけは存在していたし、めだかも居た。

 きっと、現在も、この池だけは、水をたたえていて、そこに、助けためだかの子孫たちが泳ぎ続けていると、ケイ太は信じている。

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